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多分、多くの人は、韓国が少数民族のいない国だと考えている。これについては、再三想起され、書かれてもいる。部分的にこれは正しいが、1つの修正を必要とする。韓国には少数民族がいないにも拘らず、その領内には、約2万4千人の中国人が常住している。厳密に言えば、韓国の「華僑」(中国人移民は、このように称される。)は、中華民国(言い換えれば、台湾)市民のままであるため、少数民族ではない。しかしながら、一時的に数年間だけ韓国に来る大部分の外国人と異なり、韓国の中国人は、世代から世代に渡って国内に居住し、これと関連して、他の外国人にはない若干の権利を享受している。
中国人共同体は、今、事実上至るところに存在する。中国から東南アジア諸国への移民は、数百年前に始まったが、韓国への最初の中国人移民は、比較的遅く、19世紀末に現れた。当時、数十万人の朝鮮人が、中国も含む国外に出国した。しかしながら、かなり控えめながらも、反対の流れも存在した。やって来た中国人の多くは、専門知識を有さない季節労働者が構成した。彼らは、家族なしでやって来て、金を稼ぎ(あるいは、運が悪ければ、稼げずに)、間もなく帰途に着いた。中国人は、主として海路でやって来て、主として、ソウル、並びに朝鮮の首都の海の玄関口である仁川に定住した。特に仁川において、1880年代末、朝鮮で最初の中国人街(「チャイナ・タウン」)が生まれた。
それにも拘らず、全ての中国人が貧しかったと言うには程遠い。若干の者は、朝鮮で金持ちになり、時と共に、自分の会社、しばしば、レストランと商店を創設した。特に、これらの移民は、遥か以前に朝鮮にあったが、奇妙でもなく、事実上知られていなかった中華料理を朝鮮人に親しませた。植民地朝鮮の主要対外貿易パートナーが中国でもあった以上、中国人は、1920年代から、朝鮮の対外貿易において大きな役割を演じた。1948年、韓国の全輸出入取引のほぼ52%は、現地中国人に属する会社により実施されていた。
しかしながら、中国人の主力は、後の1945〜1950年に韓国にやって来た。当時、中国では、内戦が燃え盛り、少なからない難民の流れを生み出した。主として撃破に次ぐ撃破を受けた「白軍」(言い換えれば、国民党)の支持者である多くの中国人は、韓国も含む国外に亡命した。これら難民の大部分は、韓国の「反対側」、黄海西岸に存在する山東省出身者だった。
韓国当局の難民への態度は、多様であった。一方で、中国国民党政権は、韓国政府の親しい同盟国であったため、韓国に来た難民の大部分は、当時のソウル公式筋の不倶戴天の敵である共産主義者から助け出された。それ故、難民は受け入れられ、最小限の援助を提供され、国内居住の許可を与えられた。他方、韓国政府が国内に留まり、根を下ろそうとするいかなる外国人の試みにも疑いを持って接したことが知られており、中国が単にその大きさのために、韓国では、常にかなりの用心をもって受け止められていた以上なおさらである。50年代に韓国を統治した李承晩大統領の民族主義的体制は、移民に警戒して接しざるを得ず、朴正煕統治時代、状況は、ますます複雑になった。
韓国当局が1945〜1980年に中国移民に対して行った政策は、今、韓国において、「弾圧・制限的なもの」と全く公式に呼ばれている。「華僑」に対する韓国籍の受け入れは、あらゆる手を尽くして困難にされ、このことは、韓国の中国人を「永住外国人」にした。彼らの多くは、共産主義者から逃れたか、少なくとも、
韓国に落ち着いた方が良いと考えた。公式に共産主義者との内戦で最終的に撃破され、台湾島に陣取った中国国民党政権の市民のままだったことは理解される。正式に「外国人」である韓国の中国人は、国家施設及び軍で勤務することができなかった。1961年の法律は、外国人の土地所有権を制限し、多くの中国人農民は、急いで自分の地所を売却(あるいは、緊急に自分の韓国人妻か、韓国人の友人に名義換え)せざるを得なかった。中国人は、韓国の民間会社、特に大企業への就職の際、少なからない問題にも直面し
たため、彼らの主要な職業は、独立の小ビジネスだった。
当初、恐らく、中国人の大部分は、レストランとクリーニング屋(中国人移民にとって伝統的な活動分野)を経営したが、後に、ますます多数が、主として、台湾との対外貿易に従事し始めた。このことは、理解もされる。台湾は、その小さな面積にも拘らず、急速に世界的規模の経済大国に変わり、
韓国も、その場に止まっていなかった。同時に、あらゆる制限にも拘らず、中国人には、少なからず重要な特権、つまり、国内永住権を韓国当局により賦与された。この関係において、彼らは、公式な仕事を有し、職場の喪失が即時出国を意味する
以上、韓国に合法的に滞在する他の全ての外国人と異なっている。それにも拘らず、中国人も、韓国の移民局(非常に不快な施設であると、指摘する必要がある。)でしかるべき書類を手続して
、2年に1回、自分の居住種を更新しなければならなかった。
中国人共同体の黄金期は、韓国に約10万人の華僑が住んでいた70年代初めだった。ソウルの中国人の子供の大部分は、そこで活動しているソウル中国中等学校で学び、少数の者だけが普通の韓国の学校に通った。国内では、中国語の本屋が営業し、
中国の文化センターが活発に活動した。韓国では、中国の菓子、食材及び食品商店、伝統的な医薬品(時折、偽物)が買える薬局が活動していた。
多くの点において、この全ては、今日までも維持されたが、70年代末から、中国人住民の数と中国人共同体の活動は、急速に低下し始めた。ほぼ同時に、当局側から中国人少数派への態度は改善されたが、パラドックスでもなく、その形式的地位と実情における明らかな改善にも拘らず、中国人は、大量に国を離れ、台湾に「帰国」し始めた。それにも拘らず、「帰国」という言葉は、この場合、全く正確ではない。韓国に常住する事実上全ての中国人が台湾市民でもあるにも拘らず、この島の出身者の数は、文字通り、少数である。
「帰国」が始まった原因の1つとなったのは、中国人学校の卒業生である中国人青年が、韓国の大学への入学の際に大きな問題を経験することである。言葉の直義における差別よりはむしろ、韓国人を指向した学校のプログラム自体の特性のことである。韓国人及び日本人と同様、中国人は、教育を極めて高く評価している。加えて、韓国社会において、卒業証書のない人間は、単に、出世も、物質的豊かさの達成のチャンスもほとんどない。それ故、ますます多くの家族が、子供が良い大学に入り、従って、その卒業後に相応しい仕事を見つけられる機会が多い台湾に渡り始めた。自分の運命を韓国と結びつけることに決めた中国人は、ますます頻繁に、韓国市民権に移り始めた(その受け入れ条件が、若干緩和されたおかげで)。
その結果、今、韓国には、四半世紀前の4分の1以下である2万4千人の中国(台湾)市民が存在する。それにも拘らず、中国人共同体は、国内の生活において、かなり目立つ勢力であり続けている。中国人は、韓国に滞在している全外国人の10分の1未満しか構成しないにも拘らず、国内に常住する唯一の外国人である。
他の外国人共同体の構成員、つまり、アメリカ軍人、ロシアの往復貿易商、南アジア諸国からの労働者、英語その他の言語の様々な講師
等、彼ら全員は、大部分、数年以上ここに留まるつもりはない一時的な人々である。中国人は例外である。
加えて、最近、韓国では、中国人労働者が再び多くなり始めた。20年代及び30年代の先駆者と同様、彼らも、家族なしでやって来て、少しの金を稼ぎ、家に帰ろうとしている。しかしながら、若干の者達は、
やはり、先駆者と同様、各種理由により国内に留まっている。結果となったのは、「新」中国人共同体の出現である。
これは、現在のところ、昔のものよりも顕著に小さく、このことは理解もされる。その構成員の大部分は、非合法又は半合法的に韓国に滞在している。しかしながら、
若しかすると、我々は、今、韓国における中国人少数派の再生の目撃者なのかも知れない。

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最終更新日:2004/03/19